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菊陽町商工会〔史跡・観光情報〕
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「鼻ぐり」のある馬場楠井手は、菊陽町馬場楠から、熊本市の大江渡鹿までの約12kmのかんがい用水路で、現在でも181haの水田を潤しています。馬場楠井手は、加藤清正により、馬場楠堰とともに慶長13年(1608)に築造されました。この馬場楠井手の中でも、特筆される箇所が「鼻ぐり」です。
阿蘇に源を発する白川は火山灰土壌のためヨナ(火山灰土砂)等の堆積がひどく、堰から白川の水を引いている井手の管理が大きな課題でした。特に菊陽町の曲手から辛川の区間は、地上から井手底までの深さが約20mにおよび、人力で井手底のヨナ等を排出することは極めて困難でした。
その課題を解決したのが、水力を利用して土砂を次々に下流へ排出する「鼻ぐり」という清正独特の仕組みです。この「鼻ぐり」という珍しい名称は、隔壁にあけた水流穴の形が牛の鼻輪を通す穴(鼻ぐり)に似ていることが由来といわれています。「鼻ぐり」は、清正が整備した当時は約80基ありましたが、現在では、24基を残すのみとなっております。
「鼻ぐり」の仕組みは、全国無類のものであり、非常に特色があるため、現代においても土木工学の調査・研究の対象として、学術的にも大いに注目されています。
加藤清正
永禄5年(1562)~慶長16年(1611)
加藤清正(かとうきよまさ)は、豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳七本槍の一人で、天正16年(1588)肥後半国を与えられ、関ヶ原の戦を経て肥後54万石の領主となりました。
清正は、賤ヶ岳の戦、関ヶ原の戦で武功を挙げ、さらに虎退治の逸話が伝えられるなど、武の人物として有名ですが、実は土木のスペシャリストとしても、歴史に名を残しています。
熊本では、馬場楠井手(鼻ぐり)の他にも、土木事業を行っています。白川の下井手堰、渡鹿堰をはじめ、菊池川の石塘による付け替え、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰の四大河川の治水とかんがいを整備するとともに、有明海、不知火の新地干拓、八代平野の堤防等の築造によって穀倉地帯化を進めました。
かつて国衆一揆等により荒廃していた領内を優れた土木技術で再生させ、農業生産力の増大による肥後藩経済の礎を作りました。
また、それらの施設の多くは現代も有効活用されており、その功績を称えるとともに親しみも込めて熊本の人たちは清正公(せいしょこ)さんと呼んでいます。
鼻ぐりは、固い岩盤と水力を有効利用した仕組みです。
鼻ぐりの造りは、菊陽町曲手から辛川の従来の地質である岩盤を掘削する際に約2~5m間隔に幅約1m、高さ4mの岩を隔壁として屏風のように残し、その下辺にカマボコ型の直径約2m強の水流穴(鼻ぐり穴)をくり貫いたものです。その岩盤にぶつかった水流は、渦を巻き土砂とともに次の水流穴から送出されていく仕組みになっています。築造された鼻ぐりとその水流による渦は、「加藤清正公の鼻ぐり井手公園」から見ることができます。
農林水産省農業工学研究所(当時)の調査実験結果で、鼻ぐりの築造により、掃流力が通常の開削した水路の約10倍となり、また鼻ぐりの隔壁の間隔、水流穴の位置、形、大きさなどは、平均粒径0.02cm以下のヨナの送出に十分な掃流力が備わっていること(火山灰が混じっている水を流すのに最適であったこと)が証明されました。さらに、鼻ぐりの手前には水量の調節機能のために分水路が設けられ、かんがい用水不足の場合は分水路を通して鼻ぐり下流で水を合流させ、また、大雨時の不要水は分水路に設けられた「吐(ハキ)」と呼ばれる排水口から白川へ落とす技法が用いられており、上流の水位変動に影響されることなく恒久的に安定した通水量が保てるようになっていました。このことから非常にレベルの高い土木技術が用いられたここが分かります。
なお、このときの鼻ぐりの実験に使用された小型模型が、菊陽町南部町民センターに展示されています。
鼻ぐりについては、その岩盤地質及び水路と地上面の標高差が大きい地形のため、大変な難工事であったと思われます。当然、清正の時代には、現代のようにコンクリート、重機などの便利なものはなく、石などの自然の素材を基に人力による工事を行っています。
清正は、朝鮮への出兵などにより、領地に腰を落ち着け熊本を治めた時代は、実質約15年間とう短期間でありました。「後の世のため」が清正の口癖だったと伝えられていますが、当時の技術力で、鼻ぐりをはじめ井手の整備、さらには領地の治水、干拓などを短期間で整備したことは、清正の人徳と指導力の高さ、そして領地経営に対する熱意があったからではないでしょうか。
杉並木の杉は、加藤清正が軍事、風致、熊本城修築を目的に植えられました。昔より数は少なくなりましたが、現在も参勤交代の道の名残として杉が立ち並んでいます。
なお、杉並木保全のための補植には、姉妹都市鹿児島県屋久島町の屋久杉が使われています。
鉄砲小路は、加藤清正の息子である第2代藩主加藤忠広の改易により、熊本藩主となった細川忠利が、この地に鉄砲衆を配置したことが名前の由来です。現在は地域住民により、生垣が整備・維持されており、散策路として親しまれています。
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